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インタビュー

「人形劇フェスタ」でみんなの幸せを繋ぐ

日本最大の人形劇の祭典「いいだ人形劇フェスタ」。今や飯田を代表する祭典となったこの祭りの裏には、実行委員長を務める原田雅弘さんの想いが込められていました。東北大学で過ごした時間、そして飯田に戻ってから。その時々の想いをお聞きしました。

原田 雅弘(はらだ まさひろ)

長野県飯田市出身。東北大学文学部1989年卒業。 砂払温泉代表取締役で、2014年より「いいだ人形劇フェスタ」実行委員長を務める。

大学7年間が生きる力の基礎に

僕が高校生の頃、「青葉城恋唄」っていうのが流行ったんです。あとはオフコースが全盛期で。オフコースの小田和正さんって東北大のOBですよね。それで、仙台っていう街に対してとっても奇麗なイメージがあって。あとは、長野県の風土と東北の風土って比較的似てるので、住むのにそんなに困らないんじゃないかなと思って、東北大学を受験することにしました。学部は、いきなり専門性を持ったものではなく、まずは思考の基礎になるような考え方を身につけたいという思いから、文学部を選びました。

 

入学してからは寮生活にどっぷりと浸かってしまって、ほとんど学校に行くかいかないかくらいになりました。明善寮に入ったんですよ(※明善寮=旧制二高時代に設立され、東北大学に継承された学生寮)。そこにはいろんなことをやっている方がいらして、一緒に各地に出向いていわゆる学生運動のようなことをやったりしました。その流れで今度は障害者運動を始めて、施設とかではなく、地域で暮らしている障害者の方々が自立生活できるように介護をしたり。他にも、「動く会」っていうサークル今もあるのかな?(※現在も活動中)そのサークルに何かの拍子で入っちゃって、僕が入学したのが東北新幹線開通の年だったんですけど、開通一か月前から改札前に座り込んで一番乗りする、とかやってました。でも、お金が無いから仙台から白石蔵王まで(笑)(※この間1駅)。上野から仙台まで駅伝したりもしましたね。僕の担当は宇都宮-那須塩原間でした。

 

それで卒業するのに7年かかったんですけど、そういうことをするのも大事な時間だったと思いますね。社会の中で何かやってみた、という。生きる基礎的な力をいただいたのかもしれない。変な度胸がついたりとかね。教養部から学部に行くまでに2年余分にやって、卒業するのに1年余分にかかって、教授に「卒業する気あるの?」って言われました(笑)。「できればしたいですね」って宮沢賢治で150枚の卒論を書いて、私の成績の中で唯一のAをとって卒業しました。イタチの最後っ屁みたいですね。学問ってみんな勉強だと思っているけど、問いを立てそれに対する答えを探していくことなんじゃないかなと思っていて。自分なりに考えて答えを出すプロセスの素晴らしさを分かっていないと、人が自分と同じように苦労して得た答えを「間違ってる」と排斥してしまうようになるんじゃないかな、と思います。そう考えられるようになったのは、大学でいろいろなことをやった経験から得られた部分があるんだろうな、とは思いますね。

こんな僕だからこそやらなきゃいけない

大学在学中の後半3年くらいは障害者運動に関わって一定の介護を担っていた自分が、日々生きなきゃいけない障害者の人たちがいるにも関わらず、家業(※飯田市にある老舗旅館「砂払温泉」)を継ぐというので「申し訳ない、飯田に帰ります」ってポンと帰ってきちゃったわけですよ。悩んで出した結論であっても、帰ってきてしばらくは気持ちの整理がつかず、腑抜けのようになってました。それでも徐々にうずうずしはじめて。何かやってないと、何かやらなきゃいかんなって。何もしてないと落ち着かないんですよ、自分の商売だけやってても。そんなときに、「飯田青年会議所っていうのがあるんだけど入らないか」って声をかけてもらって。

 

入ってみて、この活動をどう続けていくのか、ビジョンを考えました。80年代までは、資本主義とか社会主義とか、宗教対立とか、そういう大きなもの同士のぶつかり合いで翻弄されてきた。でもそれが90年代くらいから、その大きなものというのは必ずしも正しいわけじゃない、というのが見えてきた。そうしたときに、これからはもっと小さな物語の積み重ねが、世界を動かしていくんじゃないか。繋がり合うことによって活性化していく地域をつくっていくことが大事なんじゃないかってことを考えました。

 

そういった考えに至る要因となったのは、やっぱり人形劇との出会いですね。当時は「人形劇カーニバル」っていう名称だったんですけど、その担当をすることになって。僕らは人形劇の人たちを「劇人(げきじん)」と呼ぶんだけど、その頃カーニバルは劇人と行政の人たちが中心になってやっていた。だから青年会議所は全体の方向性を決めるような立場ではなかったわけですよ。で、市民が関わるチャンネルも当時はあまりなかった。それで、僕が青年会議所の中で人形劇の委員長をやることになったので、僕らに任されていた「カーニバルステーション」っていう場所を、市民ボランティアで運営するという方針を出したんです。

「みる、演じる、ささえる」三者で紡ぐ物語

マスコットキャラクター「ぽぉ」 左胸には参加証ワッペン

カーニバルステーションを市民ボランティアで運営すると言ったときは、「そんなことできるわけないじゃないか」「人が集まるわけない」とか言われました。でも、なんとかなっちゃったんですよね、それなりに。結局ボランティアが120~130人くらい集まって、できちゃったんです。それで、カーニバルステーションは青年会議所が完全に引き継いだんですが、98年に当時の市長が突然「今年で人形劇カーニバルやめます」と言って。寝耳に水でした。

 

じゃどうするんだってことで、青年会議所が声をかけてみんなを集めて話し合ったんです。ほとんどの人が続けたいと言ったので、続ける方向で話を詰めていきました。そのときに僕が言ったのは「市民主体のお祭りにしなきゃいけない」ということ。市民が市民の発意で、市民の自発性の中で、市民の想いを遂げるものとしてやっていくっていう。もちろんこれも「そんなのできるわけない」という人がいっぱいいましたが、でも結局、次の年にできちゃったんですよ。「人形劇フェスタ」が。

 

「みる、演じる、ささえる。わたしがつくるトライアングルステージ」このスローガンは人形劇フェスタが始まった99年に作りました。ある人が喫茶店でお茶を飲んでるときに「原田、実はこれで人形劇が作れるんだよ」ってカップとポットを指さしたんです。人形劇って別に人の形をしたものじゃなくてよくって、要は物を一つの媒介にして何某かの物語を表現する芸術なんです。人が演じる芝居って演者の表情を見ればその人が嬉しいのか悲しいのか分かりますけど、人形劇は観る人も演じる人も想像力を駆使しないと「なぜここでこの人形はこういう動きをしているのか」が分からない。そしてもちろん、設営したり、会場の整理をしたり、そういうささえる人がいないと成り立たない。三者がいて初めて人形劇っていうのは成立するんだと。だから、みんなが一緒になってフェスタを作っている一つのシンボルなんだという想いを込めて、700円のワッペンを、劇人にも、観る人にも、スタッフにも買ってもらってるんです。

 

やっていく中で、それぞれが「あ、これって大事だな」「よかったな」って思えて、それを持ち寄って繋がったときに、我々が求めていた人形劇フェスタっていうのができるんじゃないかなって。だから正解というのは何もなくて、みんなにとっての人形劇フェスタを見つける4日間にしてほしい。それが、僕が求め続けていることなんです。

2024年の開催日は8/1~4

どなたさまもぜひご参加ください!

詳細はこちら:
https://www.iida-puppet.com/

●プロフィール
長野県飯田市出身。東北大学文学部1989年卒業。 砂払温泉代表取締役で、2014年より「いいだ人形劇フェスタ」実行委員長を務める。