迷いや悩む時にまずは「原点」回帰へ。
2010年秋の叙勲において、坂本壽郎さんは瑞宝双光章を授与されました。宮城刑務所へ30年にわたって通われて、矯正教育に貢献された功労が表彰されたのです。坂本さんご自身は戦時中に軍需工場へ動員されるなど、教育もままならない中学生時代を過ごされました。経てきた歳月の中での教育に関する感慨を、あれこれ語って頂きまし
坂本 壽郎(さかもと じゅろう)
桜岡大神宮宮司(仙台工業専門学校 1950年卒業)
戦時中、戦後を過ごした学徒時代
私は昭和4年生まれですが、戦時中に育ち激動の時代を過ごしてきました。様々な経験をしたので、今の人たちの3倍は生きてきたような気がしています。中学4年頃には川崎の軍需工場で働きました。半年後に空襲があって仙台へ返され、今度は東北特殊鋼に入って、研磨などの仕事をしてました。そして、8月15日の終戦を迎え実家へ帰ったものの、何もすることがない。そこで、予科練から帰ってきた兄と相談して、農業をやることにしました。愛子(あやし)の土地を耕したら土地を譲ると言われていたので、県庁から鍬と鎌をもらって愛子へ通いました。ですが、松の木を倒したり竹藪の根っこを除くなど到底できませんでした。
それで、上級学校へ行くしかないと、仙台工業専門学校(後に東北大学工学部に包括)へ入ったのです。空襲で亡くなった従兄弟が仙台工専の学生で「冶金は面白い」と言ってましたし、軍需工場などで鉄にふれたこともあり、冶金科冶金部へ入りました。昭和25年に卒業したのですが、肺結核になってしまい金属関係の仕事は断念せざるを得ませんでした。
当時は理科と数学の先生が少なく、私も志望することにしました。秋保(あきう)にある中学校で1年半勤めた後、南郷にある農学校で教鞭をとりました。ところが、桜岡大神宮の宮司をしていた父が身体を壊し、その後を継いでほしいと要望されました。そこで、農学校の夏休みなどを利用して國學院大學の講習を受けて、ようやく神主の資格をとったのです。以来、どうやらこうやら神主を続けてきたわけです。
仙台刑務所で教師活動
40歳までの神官で構成していた神道青年部会の会長をしていた頃に、毎年、宮城刑務所の慰霊祭に出席していました。50歳頃でしょうか、刑務所の矯正教育を手伝ってほしいと依頼されたのです。仏教やキリスト教の教育の機会はあるのに、神道のものが無いのは変だという意見もありましたね。
その頃は、慰霊祭を一つの事業として取り組んでいましたので、やってみようと思うようになりました。神主の仕事は、世のため、人のためになることをするのが当たり前でしたしね。それから、30年間にわたって刑務所に通い、20人位の方を対象とした講話と個人との対話というように2つの路線で取り組みました。
刑務所の収容者はB級犯の長期の方が多かったです。出所してもまた入所する方も多かったです。一見、悪いことをするような人には見えない印象でしたし、実際に話などをしてみますと礼儀正しいですね。個人的に話を聞いてもらいたいと言われて、悩みの相談なども受けてました。
神道が産んだ思想
いろいろと話をするわけですが、長ければ飽きて聞いてもらえなくなりますから、15分毎に区切ったり、話の内容を工夫したものです。新聞の話題をとりあげたり、日本の神話について語ったりしました。
日本の神様は天照大神をはじめたくさんおられますから、「神道で神が何人もおられるのは、どういうことですか」とよく質問されます。例えばキリスト教などの一神教と違って、神道にはなかなか説明が難しい所があります。
私が思うには、「宗教」という言葉が一般に浸透することになったのは、明治時代からではないでしょうか。その時に、神道を宗教の一つに入れたのが間違いだったように考えます。宗教には、教祖、教典、礼拝堂の場所などが必要です。神道では、教祖は居ない、教典は「古事記」「日本書紀」でもありませんし、宗教の概念があてはまらないわけです。ですから、神道には、宗教という見方では理解できないことがたくさんあります。
坂本壽郎例えば、イザナギノミコトとイザナミノミコトが国産みを行って、日本が誕生したと言われています。この「産む」という言葉はキリスト教にはありません。神道の考えでは、私たちの先祖をずっと辿っていけば国産みに至り、神様が産んで下さったのですから、皆、家族になるのです。
大きな樹木を切るとたたりがある、というような話があります。それは、樹木も神様が産んだものですから、私たち人間の兄弟であり、兄弟を勝手に切ってはいけないという思想があるからです。
とにかく刑務所へ通った30年は、仏教やキリスト教の方々と交流するいい機会になりまして、自分自身にとっても勉強になりました。
教育の原点に戻る。
新聞を広げますと毎日、児童虐待、無差別殺人など痛ましい事件が多いです。なぜそうなるのか、考えてみますと、教育のあり方に行き着きます。教育の改革はそう容易いことではないでしょうが、どうあるべきかと言えば、一番は教育の原点に戻ることが大事ではないでしょうか。
思い切って「教育勅語」まで立ち戻って、見直してみるのもいいと思います。「教育勅語」は、その中に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という文などがあることで批判されることも多いのですが、それ以外は親孝行、友愛、夫婦の和、謙遜、修学習業などと教育のあり方をきめ細かに記されてまして、とても役に立ちます。そこに現れている精神を再認識しても良いと思います。
現在、青葉工業会の会員として東北大学との縁は続いております。学生の皆さんには、友人をたくさんお作りになることを薦めます。私も中学校時代に軍需工場などで苦労を共にした友人たちと、長い付き合いを続けてきましたが、何かにつけ支えられてきました。自分の気持ちを何でも話せる友人は、人生の中でとても大事だと思います。
●プロフィール
1950年仙台工業専門学校採鉱冶金科 冶金部卒業後、名取郡秋保中学校、宮城県南郷農業高等学校の教諭を務める。1955年櫻岡大神宮権祢宜を拝命。さらに1957年には伊勢神明社宮司の拝命を受け、二社を兼任する。1983年櫻岡大神宮宮司を拝命。1994年全国教かい※師会会長に就任し、1997年全国教かい師連盟総裁表彰。1998年本庁評議員を委嘱され、同時に山形大学医学部講師を兼任する。2004年神職身分特級に昇進し現在に至る。法務大臣表彰(2002年)、神社本庁表彰(2004年)、瑞宝双光章授与(2010年)ほか。