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東北大学ひと語録

《ではもう一遍やってみますか》

村上 武次郎(むらかみ たけじろう)

「世界のKINKEN」の礎を築く“控えめな巨星”にして「特殊鋼の最高権威」。

本多光太郎あるところ村上武次郎あり。「マテリアルサイエンスの東北大学」の共同開拓者。

世界の大学を評価する各種ランキングが、昔と比べだいぶ客観的になり、注目されるようになりました。
東北大学は「マテリアルサイエンス」の研究分野で長年日本一、世界でもトップ3以内に各種の調査でランクされてきました。この成果には「金属材料研究所」の存在が大きな役割を果たしています。その「世界のKINKEN」といえば、すぐに思い出されるのが創立者の本多光太郎です。「金属の密林の開拓者」とも評される大学者。ところが、東北大学の材料科学研究の創成期に大きな功績を挙げたもうひとりの金属学の巨星がいました。その人物こそ、村上武次郎です。

 

社会の注目が、総長として東北大学の発展にも大きな役割を果たした本多に集まるのは当然のことでしょう。自分の結婚式を忘れ、研究室にこもっていた、などという破天荒なエピソードを数々持つ本多です。個性的でたいへん目立つ存在。一方の村上は、丸縁眼鏡を掛けた紳士。万事に控えめで謹厳、温厚、几帳面で、静かな研究一筋の学者でした。本多を太陽にたとえれば、村上はいわば月。地味な存在のためか、その大きな功績に比べ、取り上げられることが少なく、もう一つ知られていないように思われることが残念です。

 

こうした村上の人となりは、村上逝去の10年後に発刊された記念誌『追想 村上武次郎先生』(以下、『追想』と略す)の弟子や関係者の文章でもよくうかがえます。
かつて金属材料研究所の所員であった元東京大学総長の茅誠司は、
《 当時の研究所には百人近い研究者がいたが、本多先生から見ると全部子供のようなものだったが、只村上先生だけは別格だった 》
こう記し、本多と村上があって、金属材料研究所の基礎が磐石になったことを間接的に指摘しています。
《 先生は散歩以外に、酒、煙草はもとより、囲碁、将棋などもたしなまれず、いつも静かに外国雑誌を読むか、研究論文の校閲をしておられ、勉強そのものがご趣味のように見受けられた。 》
ある弟子の記述ですが、村上に接した人々の共通の印象であったようです。

 

二女静子の女婿であり、学問の後継者でもあった今井勇之進(学士院賞受賞者)は『追想』で述懐します。
《 (村上の故郷である京都府亀岡の共同墓地での埋骨式の様子を紹介し) 石のガラガラ混じった二坪のこの土地が、八十六年余りの生涯に先生が買い求められた唯一の土地である。 》
まさに清廉であり、利得に恬淡とした村上であったからこそ、本多の懇請に応じ、まだ海のものとも山のものとも知れない東北帝国大学臨時理化学研究所への降格人事での赴任を引き受けたのでしょう。日本にいま緊急に必要とされている鉄鋼や金属の学理的な研究が思う存分にできる。村上には、これに勝る喜びがなかったのではないでしょうか。

 

当時は、「鉄は国家なり」が、要路を担う人たち共通の認識でした。鉄製造の能力と鉄の品質で、国の文明と文化、さらには国力が決定されてしまうからです。
本多と村上の研究は、第一次大戦の勃発とその後の混乱の影響で、鉄鋼材料やさまざまな特殊な金属の欧米からの輸入が難しくなった状況において、緊急かつ重大な日本の存亡に関わる国家課題でした。
マテリアルサイエンスとは、その成果物を写真で見ると、画期的なはずの新材料が、ただゴロリと置かれ写っているだけです。とかくジャーナリスト受けのしない、地味な学問と見られがちです。しかし、「青銅器時代」、「鉄器時代」と素材で歴史が分類されるように、人類の歴史と文明を根底から変革する力を持つ最重要な研究テーマなのです。
本多、村上、そして金属材料研究所などのスタッフの活躍とその研究成果により、日本は鉄鋼や各種の金属研究の世界のトップ水準に短期間に躍り出ることができました。
東北大学は、時代の要請に見事に応え、日本の文明のさらなる発展の契機を生み、支えた大学です。

 

世界の研究者が活用した「村上試薬」。金属組織の安定した状態を顕微鏡下で明らかに。

村上は、京都帝国大学の卒業ですが、ある意味では東北大学人らしい軌跡を歩んだ研究者でしょう。まずは、東北帝国大学が先駆けた「傍系」入学であることです。旧制中学、旧制高校から帝国大学へという恵まれたコースを歩んだのではありません。代用教員、小学校や女学校の教諭を経て大学に入学しました。小学校時代には、学校の教科書を上級生が使わなくなったのを借りて勉強したというエピソードが残っています。元は保津川郷士の旧家でしたが、経済的に恵まれない家庭環境です。このような境遇の秀才が目指す学校が師範学校でした。学費はもちろん生活費までが支給されるからです。村上は、師範学校卒業者に課せられる義務年限の教員生活を終えると、東京高等師範学校へ、そして高等女学校の教師を務め、さらには在職し俸給を得ながら京都帝国大学理科大学純正化学科に入学します。二十九歳での帝大入学でした。典型的な「晩学」、「苦学」の人です。止みがたい学問探求への階段を次々と上るため、忍耐をもって努力、粘り強く几帳面に己を律し、ついには京都帝国大学を卒業、すぐさま講師に抜擢されます。

 

そこに舞い込んできたのが、本多が東北帝国大学に創りあげた臨時理化学研究所の「補助嘱託」への懇請でした。向学のためには苦労を厭わない村上です。利得より、己の学問探求への最善の道を選ぶ性格。能力以外では区別しない学風の新興の意気に燃えた東北帝国大学が用意した活躍の舞台へ―。ここに、研究一筋の村上と東北大学の、みちのく仙台での満八十六歳までの幸せで長いつながりが生まれました。村上三十四歳、1916年(大正5)の時のことです。

 

臨時理化学研究所は、その後に大学附属の「鉄鋼研究所」に、さらには附置研究所「金属材料研究所」へと一大飛躍をとげます。
経済恐慌の緊縮財政の折、大学の経費が軒並み削減されても、金属材料研究所の経費はなんとか現状維持。財閥住友家からの創設資金としての多額の芳志や工業界各社からの相次ぐ寄付により、ますます施設を充実させ発展しました。社会からの厚遇には、世界が驚く優れた研究業績が次々に生み出され、優秀な若き人材が各界から集まるという輝かしい実績があったからでしょう。
本多の物理的な金属研究に対し、村上は化学的なアプローチが研究の手法です。絶妙な二人の組み合わせでした。

 

金属とは、温度や圧力、不純物などで、同じ金属がその性質や強度を変えていきます。望ましい性能を示す一定の状態での安定的な製造方法が工業的には必須となり、ここに金属を扱う難しさがありました。
研究の基礎としては、金属の組織をしっかりと観察し、ある望ましい性質のときの組織の組成や形態を決定(同定)しなければなりません。かといって、金属には、炭素などの不純物が混じり一筋縄では判定できません。
そこで村上は、「村上試薬(赤血塩アルカリ溶液)」を創案しました。金属の表面を染める腐食液で、金属に含まれる炭化物などを、その組成に応じて明るいオレンジ色から渋い茶色に色分けして、金属表面の組織を顕微鏡で観察し、写真やスケッチとして残す手法です。この「村上試薬」の登場により、国際的にも金属研究が飛躍的に進展。世界をリードする研究成果でした。村上は、日本よりも欧米の金属学者や鋼業界で注目される存在となったのです。

 

 

村上は、この手法での成功を糧に、特殊鋼や合金への研究に進みます。それまでの二つの元素からなる合金からさらに進み、三つの元素を加えた特殊鋼や合金への挑戦です。この分野でも、複雑難解な三元系状態図の決定にも世界に先駆ける先鞭をつけました。
村上が、「特殊鋼の開拓者」、「特殊鋼研究の世界の権威」と評されるのは、こうした輝かしい実績があったからです。

金属材料研究所の優秀な研究者続出の秘訣!?「どうだん?」の本多、「もう一遍…」の村上。

金属材料研究所の名声はもちろん本多と村上だけの功績ではありません。若き優秀な研究者あっての研究所でした。二人が在籍した当時の所員からは、弟子二人の文化勲章授章者を輩出しています。前述の元東京大学総長の茅誠司、後に金属材料研究所の所長となる増本量です。
村上の直接の弟子からは4人もの学士院賞受賞者が誕生します。俊才育成の秘訣でもあるのでしょうか。

 

とにかく、本多、村上の二人とも、毎日、一定の時刻に所員や研究生の研究現場に顔を出し、実験の進展を訊ねるのが共通した習慣であり態度でした。本多は、「どうだん?」と愛知弁で、村上は静かに「どうですか?」と問うのです。これが、毎日のことです。実験にめぼしい進歩のない日々の研究者には冷や汗ものの苦行だったとは、当時の所員たちの率直な回顧談です。
ある所員の回想は、さらにその後へと詳しく続きます。
《…(実験データを村上に報告したさいのエピソード)凡そ村上門下にして、先師から「ではもう一遍やってみますか」と云われた事のない者はあるまい。今の錚々そうそう たるお弟子さん達は此の「もう一遍…」「もう一遍…」に耐えぬいた人たちだと思う。…》
几帳面で、総てに全力投球するまじめな村上から、静かに、「どうですか?」、「もう一遍…」と問われる弟子たちは、村上を人間的にも尊敬しているだけに、余計に堪えたことでしょう。
『追想』の口絵写真には、村上の自筆による「履歴書」が特別に紹介されていました。その詳しさといったら仰天ものです。原稿用紙にしておよそ16枚分。出張のことから試験委員担当としての手当てまで、几帳面な楷書で次々に列記され、見るものを圧倒します。
《 実験に当たって小さい変化でも見落とさないこと。これは、研究のフィールドのみならずどんなことにも大切な事だと思う 》
村上が、最後に卒業研究を見た学年の学生たちに、紅茶と洋菓子を用意した席で話した研究の心得です。
膨大で詳細な自筆の履歴書を見ると、この心得とは、まさに日々に実践していた村上自身の生活信条だったと納得できます。
といっても、村上は、小うるさい性格や、怖い教授では決してありません。温顔で、まさに善意そのものの人でした。時には、謹厳な顔を崩さずにユーモアにあふれたこともぽつりと話すのです。以下は、金属工学科の教官会食の席での挿話です。
《 あなた方は大学の先生だけれども、小学校の先生にはなれません。私は、大学から小学校まで、全部の学校の先生の資格を持っていますよ。》
弟子や学生だった人たちの共通の思い出として、明晰でたいへん分かりやすい講義はまさに惚れ惚れするほどで身を乗り出して聴き入ったものだ、とも述べられています。村上が、いま己が世界の最先端を走っている研究成果のそのものを教えていたという理由もあるでしょうが、高等師範学校まで卒業した、教師としての「授業」のプロフェッショナルであったためでもあったでしょう。
学士院賞や文化勲章の授章と、学者として最高の栄誉を得た村上が、仙台市名誉市民として提供されたバスの無料乗車券を、散歩で疲れた帰り道に果たして利用していいものかどうか思案した、とも家族が回顧しています。
その律儀さに、人間村上の魅力と素顔が光っています。

●プロフィール
村上武次郎(むらかみ・たけじろう) 1882年(明治15)、京都府生まれ。高等小学校を卒業して小学校の代用教員を務め、その後に京都師範学校へ。小学校の教諭からさらに東京高等師範学校へ進学し卒業。京都府立第一高等女学校に赴任。なお学業の思い断ちがたく二十九歳で京都帝国大学理科大学純正化学科入学。学究への転身を図る。京都帝国大学講師になるも本多光太郎の懇請で、後の金属材料研究所の前身東北帝国大学臨時理化学研究所の「補助嘱託」になる。降格人事だが新生の意気に燃え、みちのく仙台へ。この決断が、村上を世界の金属学の権威者とする端緒となる。本多のいわば右腕。日本初の大学附属研究所「鉄鋼研究所」さらには「金属材料研究所」への発展と充実を、優れた才能と努力、誰からも信頼される控え目で温厚な人格で終生支え続けた。物理的な探求の本多に対し、金属を化学的な側面から研究。「村上試薬」を発見、金属性質の安定した状態の組織を顕微鏡で精査する手法を世界の研究者に提供、金属学が飛躍的に進展。特殊鋼の研究でも顕著な実績を挙げ、その製造と実用化までの産業界のよき相談役であり、日本の金属産業発展の功労者。四十代で工学部長、停年の1944年(昭和19)までの8年間を金属材料研究所の所長歴任。退官後も、金属関連の各工場に出かけては長年指導。帝国学士院賞、日本金属学会賞、本多記念賞受賞など受賞多数。1956年(昭和31)に文化勲章授章。仙台市名誉市民。1969年(昭和44)逝去。享年87歳。

主な参考資料
▽『追想 村上武次郎先生』 追想 村上武次郎先生出版委員会編集・出版 <非売品> 昭和55年 ▽『金研50年』 東北大学金属材料研究所 創立五十周年記念事業実行委員会編集 発行者 委員長 白川勇記 昭和41年 <非売品>  ▽『金研50年から75年』 東北大学金属材料研究所 創立75周年記念事業実行委員会 編集 発行所 東北大学金属材料研究所 平成3年 <非売品> ▽『仙台市史 通史編9 現代2』 編集 仙台市史編さん委員会 発行 仙台市 平成25年 ▽『東北大学五十年史 上 下』 東北大学 昭和35年 ▽『東北大学百年史一 通史一』 東北大学百年史編集委員会編 東北大学出版会 平成19年 ▽『東北大学百年史七 部局史四』 東北大学百年史編集委員会編 東北大学出版会 平成18年 ▽『特殊鋼』 村上武次郎・玉置正一・石川頼三・武田周蔵 共著 共立社 昭和13年 ▽『言葉が独創を生む 東北大学 ひと語録』 阿見孝雄著 河北新報出版センター 2010年