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東北大学ひと語録

《技術というものは奇蹟なのであります。》

成瀬 政男(なるせ まさお)

「歯車の成瀬」と謳われた世界的な権威。日本の機械工学と機械産業の充実と発展に献身。苦学生への「成瀬寮」を私財で運営。学生に大いに慕われた。

トヨタを発展させた「歯車の成瀬」

私たちの暮らしに利便をもたらす文明の機械要素の基本中の基本。そのことで、かえって世間からありがたみが忘れられがちになるものがあります。代表例が、「歯車」でしょう。
自動車はもちろん飛行機から時計、さらにはロボットや工場で使われる精密機械の果てまで、動くものすべては歯車の働きのおかげです。各国の産業水準は、どれほど精巧で効率がよく耐久性の優れた歯車を造れるかで分かってしまう。それほど重要な機械要素、産業要素です。
その歯車研究に一生を捧げ、「歯車の成瀬」と尊敬された世界的な権威が成瀬政男です。

 

成瀬は、房総白浜の、貧しいが、肺を患っている身寄りの無い人のお世話をすすんで行うような人助けの精神に満ちた家庭の二男三女の長男として生まれました。尋常高等小学校を卒業するとすぐに丁稚奉公。すると、成瀬の能力を惜しむ人の助力と己の農作業での稼ぎで安房中学校(現・安房高等学校)に入学することになります。ところが家から学校までは往復32キロメートルもの山道。成瀬は、毎日往復8時間をかけ、本を読みながら歩いて通い卒業します。

 

中学校を卒業後、尋常高等小学校の代用教員となります。どこでも最善を尽くす成瀬です。この時代にペスタロッチの教育思想を知り、生涯にわたり関心を持ち研究を続けています。
代用教員時代、またも恩師からその才器を惜しまれ、東北帝国大学工学専門部へ入学。「銀時計」を授けられる優秀な成績で卒業。宮城県立工業学校の教諭になりますが、ここでもさらに進学を勧められ、東北帝国大学工学部機械工学科に入学します。成瀬の器の大きさを見抜き、助力を申し出る支援者が現れるのは、成瀬の生涯を通しての特長です。飛び切り優秀であったためであることはもちろんですが、日々を真剣に「一所懸命」に生きる姿勢と努力が、おのずと周囲から信頼と期待を集め、願ってもない支援の手が差し伸べられたのでしょう。
こうした実体験もあってか、成瀬は、人の恩のありがたみを語り、利他の精神を説きました。のちには成瀬自身が若き人を大いに助け、応援する生き方を、さまざまな局面で発揮します。

 

さて、大学を卒業すると、成瀬は直ちに講師に抜擢されます。機構学の講座の担当です。恩師の宮城音五郎教授からは同時に歯車研究を指示されます。早速、歯車理論に得意な数学が適応できることを察知、理学部の数学研究者とも議論を重ねます。その間には、己の歯車製造での実地体験の不足を感じ、歯車づくりの当代きっての名人職工溝口良吉に弟子入りをするという徹底ぶりでした。こうして、ついには数式による「歯車の一般理論」をまとめあげます。
この数式に従えば、研究者や技術者は、自ずと歯車の能率的な歯の数、高さ、深さ、厚さ、相手の歯車の歯の厚さなどが割り出されるという画期的なものでした。歯車製造において、世界を代表する歯車メーカーの最高性能の歯車の秘密のベールが数式で露わにされた瞬間でした。

 

この一般理論の完成後に、成瀬は欧州へ留学。ドイツなどの歯車研究の権威者との議論や世界トップの歯車メーカーの技術者と交流。そこで、己の「歯車の一般理論」が間違いのないことを確信。この事実により、「歯車の成瀬」の名が一挙に世界にとどろく結果となります。
しかも成瀬は、スイスやドイツのメーカーの高性能の歯車製造の秘密とは、工作技術の精巧さと優秀な技能者を誇りとし大事にする伝統と文化にあることをも強く実感するのでした。
それに比べ、日本の現状はどうなのだろうか。この問題意識が、後の成瀬の、技能教育の充実と近代化、技能者の重視と社会的な地位の向上を常に目指し、活動する契機になるのでした。

 

成瀬は、多数の著書や講演記録、新聞雑誌等への寄稿原稿を残しています。その内容を読んで感じることは、大変分かりやすく、しかも迫力ある名文であることです。事実、成瀬の著書『歯車の話』や『日本技術の母胎』などの文章が、国語の教科書に何度も掲載されています。
≪技術というものは奇蹟なのであります。≫
この表現のように、ずばりと技術の本質を明快に分析する魅力的な文章が特長でしょう。

 

たとえば、教科書に取り上げられた成瀬のエピソードに、宮城県佐沼町(当時)の灌漑用水取り入れ口のモーターの歯車修理の話があります。1500町歩もの水田に北上川の水をくみ上げるモーターが故障。田植えの時期は限られ、さし迫っています。ところが、現場を訪れた製造会社の技師たちはモーターを調べ、とても修理できないと頭を抱えました。当時は、太平洋戦争の戦時中。どの工場も軍需品の製造が最優先です。すぐに製造してくれる工場はありません。この季節に水を田に揚げることができなければ、4万石の米が稔る広大な田んぼで米が取れなくなる緊急事態でした。土地の人々の全員がバケツで川の水を汲み上げ、田に掛けようとしても到底に無理な広さでした。宮城県庁からの懇請を受け、現場を訪れた成瀬は、モーターを調べます。故障の一大原因は、歯車の変形にありました。そこで成瀬は、歯車の歯形を例の一般理論に合わせ、やすりで新しい歯車の形に修正しようと決断。そのほか軸受け等の取替えと据付を、発動機が専門である同僚の棚沢教授に依頼し熱心な協力を得ました。こうした全員の奮闘で、わずか三日で修理が完成。広大な水田に水が満々と張られ、田植えができたのでした。

 

この事実を成瀬は、技術が奇蹟を行ったと表現したのです。何万人も若者が昼夜を問わず水をバケツで川から汲み上げてもできないことを、一つのモーターのスイッチを入れるだけでらくらくとできてしまう。飛行機で海外に旅行することも技術があってこそ。技術発展が、かつては人間にとって夢物語であったことを可能にしてくれる。技術とはなんと素晴らしいことか。
これが、成瀬の変わらぬ信念であり思想でした。

 

自動車の「トヨタ」の創業者豊田喜一郎は、国産自動車を日本人の技術の力で創ろうとしました。自動車の要となる変速機の歯車理論と技術の教えを成瀬に請い、成瀬は快く協力。同じ工学部の抜山四郎教授がエンジンの指導に当たりました。トヨタの大卒社員の第一号は東北帝国大学の卒業生です。「トヨタ」の創業には、東北大学の技術の力が大きく寄与していたのです。現在のトヨタグループによる東北での製造拠点化の進展も、こうした東北大学との歴史的なつながりがあってこそであると地域はもっと深く認識すべきでしょう。ソニーの世界企業への発展にも、永井健三教授など東北大学電気通信研究所の研究成果が決定的な貢献をしています。

 

意外と知られていませんが、成瀬は、苦学する学生のための生活支援の寮「航空寮(成瀬寮)」を私財で運営しました。日々の生活と精神指導にも関わるなど学生の全人格的な教育にも力を注ぎました。この寮からは、田辺経営創業の田辺昇一など多くの逸材を輩出しています。
定年退官後、成瀬が「中央職業訓練所(現・職業能力開発総合大学校)」の初代所長に就任したのはまさに適任でした。ものづくり=「科学」+「技術」+「技能」であり、さらに「創意工夫」と「職業訓練」が大事と強く訴えた成瀬は、幸福のモデルの数式化まで行っています。
≪ものをつくることは、幸福のためである≫。
この、成瀬の根本思想と哲学は、いま、さらなる輝きと重みを増しています。

●プロフィール
1898年(明治31)千葉県生まれ。小学校代用教員などを経て東北帝国大学工学専門部、東北帝国大学機械工学部を卒業。直ちに機械機構学の講義担当の講師就任。歯車の研究を開始。理学と工学の融合を企図した東北帝国大学の学風を生かし解析幾何学と数学を駆使し歯車の新たな一般理論を構築、世界が瞠目する。欧州留学時に歯車研究とならび日本の産業振興に何が必要かを常に模索。国家、技術、産業、教育への考えを著書、講演、己の生き方で生涯を通し訴え実践する。学士院賞、朝日文化賞、毎日出版文化賞、紫綬褒章など受賞。豊田喜一郎の国産自動車開発に協力。その歯車理論と技術が現在の「トヨタ」へ大きく貢献。定年退官後、新設の中央職業訓練所(現・職業能力開発総合大学校)の所長就任、初代校長として発展に寄与。科学者・技術者・技能者の三位一体を説く。1979年(昭和54)没。

主な参考資料
▽『歯車の話』 成瀬政男著 牧書店 1954年▽『歯車』 成瀬政男著 岩波書店 1934年復刻版 現代工学社 1947年▽『日本技術の母胎』 成瀬政男著 機械製作資料社 1945年 ▽『ドイツ工業界の印象(再版)』 成瀬政男著 育成社弘道閣  1942年 ▽『歯車の基礎と設計』 成瀬長太郎著 養賢堂 1988年 ▽『東北大学 五十年史 上』 東北大学 1960年 ▽『トヨタを創った男 豊田喜一郎』 野口均著 ワック 2002年▽『ソニー自叙伝』 ソニー広報センター著 ワック編集部編 ワック 1998年(初版)▽『わが道をゆく――人間形成の知恵――』 田辺昇一著 ダイヤモンド社 1995年 ▽『言葉が独創を生む 東北大学 ひと語録』 阿見孝雄著 河北新報出版センター 2010年