×

home連載記事ひと語録 > 齋藤 善右衛門有成(さいとう ぜんうえもんとしなり)

東北大学ひと語録

《 …人間ガ其勤務ノ結果ニ依リ得タルモノハ即チ天物ニシテ、コレヲ人類ノ幸福ニ提供スベキモノニテ、決シテ自己ニ私スベキモノデナイ… 》

齋藤 善右衛門有成(さいとう ぜんうえもんとしなり)

財団法人齋藤報恩会を創立した大資産家。学術への莫大な資金助成が、「研究第一」の東北大学の伝統(ブランド力)を強化。

「研究の東北大学」支援の大功労者。莫大な私財を「報恩主義」から学術研究に資金拠出。

世界の驚く、夢のような快挙が、東北の地でかつて実現していました。
日本の大資産家の一人、齋藤善右衛門が、1923年(大正12)に300万円の巨費を拠出し、財団法人齋藤報恩会(以下、齋藤報恩会)を仙台で創設。学術研究への莫大な資金助成を主な目的とする、欧米にも先駆ける公益財団の誕生です。
この研究助成により、当時の東北帝国大学から文明の先頭に立つ発明や発見が次々に生まれました。これらの実績により、「研究の東北大学」の伝統(ブランド力)が、東北帝国大学の初期の段階ですでに実現。海外でも研究成果が大いに注目される大学となったのです。

 

一例を挙げましょう。「電子立国日本」の端緒と発展は、間違いなく東北大学が生み出したものです。1924年(大正13)に、齋藤報恩会から、「電気を利用する通信法の研究」という一つの共同研究へ5ヵ年継続で毎年4万円を研究補助する破格の資金助成の決定がなされました。当時では珍しい、8班で分担研究をする一大共同研究プロジェクトです。個人研究の分も含め助成金の総額は22万5千円。当時の文部省の全国すべての高等教育機関への科学研究奨励交付金(現在の科学研究費、いわゆる科研費)の“総額”が13万5千円(大正12年度)です。現在の科研費は、2,000億円前後。齋藤報恩会の莫大な研究助成の衝撃は、現在の金額に換算するより、当時の日本全体の研究費との対比で考えた方が実態に近いでしょう。善右衛門の齋藤報恩会への拠出財産は300万円。物価をもとにした換算では現在の300億円ほどといわれます。これも、東北帝国大学の創設資金の総額が約41万円であったことと比べてください。当時の300万円とは、現在の300億円どころではない圧倒的な存在感の巨費でした。

 

齋藤報恩会の研究助成金には、年度にかかわらず継続して資金を使える使い勝手のよさもありました。前述の一連の共同研究の成果からは、「八木・宇田アンテナ」の元になった指向性アンテナや現在は電子レンジにも使われている「分割陽極マグネトロン」など多数の研究成果が生まれます。これらは後にレーダーを生み出す基本原理にもなりました。ところが、当時の日本ではあまりにも先進的に過ぎ、注目をされません。第二次世界大戦で英国が軍事用レーダーとして開発、日本敗戦の一因とも評されたのは皮肉なことです。これら輝かしい研究の成果から、東北帝国大学に電気通信研究所が誕生します。そして、戦後には、半導体やレーザー、光通信の研究業績を生んだ西澤潤一、垂直磁気記録方式の発明者岩崎俊一の活躍につながります。

 

 

「世界のKINKEN」と呼ばれ、日本初の大学附置研究所である金属材料研究所の生みの親本多光太郎も、齋藤報恩会からの莫大な資金助成で、日本初の研究に挑戦します。低温による金属磁性や材料物性の研究で、まずは液体ヘリウムの製造を実現。超伝導の研究にもつながるものです。現在は「極低温研究センター」へと発展しています。
東北大学に農学部ができたのも、齋藤報恩会からの資金援助で創設された「農学研究所」が基になりました。ここの研究者からカキの養殖技術が生まれ、いま世界のカキ養殖の種ガキは、いわば“東北大学生まれ”のカキとなっています。
理系だけではありません。戦前の法文学部には、日本の新進気鋭の「知の巨人」が参集しました。これほど多彩な、優れた学者たちを一時期に擁した大学は、日本の学問の歴史においてちょっと見当たらないほどです。
これにも、齋藤報恩会の資金援助による、学術的に貴重な文献や文庫の東北帝国大学の所蔵などが貢献しています。当時の気鋭の俊秀たちが競って法文学部へ赴任した動機の一つともなり、優れた学問成果を挙げる手助けになったのでした。
たとえば、京都帝国大学文科大学学長を務めた狩野享吉(こうきち)の収集した蔵書「狩野文庫」も、齋藤報恩会の助成で東北帝国大学の図書館の所蔵となりました。「東北大学文系の顔」ともいわれる著名なコレクションです。江戸学や日本研究に欠かせない貴重資料としてあまりにも有名です。仏教哲学の研究では、世界の学者の垂涎の的「デルゲ版西蔵大蔵経」の購入も支援しました。後には、齋藤報恩会の助成により「西蔵大蔵経総目録」も整理、刊行。この一連の仏教研究と目録作成に関わった碩学たちは、後に文化勲章や学士院賞といった栄誉を得ます。これらは、ほんの一例にすぎません。

社会への報恩を働く糧に。宮城の大資産家齋藤善右衛門の世界に冠たる私財活用財団。

善右衛門は、日本第二位の大地主です。当時の全国屈指の大地主とは、各方面に投資をする大資本家であり、まさに大事業家でした。財閥に近い存在、ととらえた方が実業の世界の実態に合うでしょう。
善右衛門は、ここ宮城に暮らしながら、膨大な借財で破産状態にあった日本を代表する大教団大谷派本願寺(東本願寺)の財政の再建を一任され、短期間で見事に成功しています。当時の大銀行などが尻込みをする困難な案件でした。優れた理財の才覚と縦横の機略と胆力が、中央でも改めて注目されることになります。

 

中年からは日本有数の大資本家、大富豪として認められた善右衛門ですが、日常の暮らしぶりは質素そのものでした。宮城県前谷地にあった屋敷も、一豪農の佇まいといった様子。華美や贅沢とはほど遠い質朴なものです。善右衛門の事業や暮らしを律していたもの、それは、彼の「報恩主義」の思想でした。どんな考えかを、『齋藤善右衛門翁傳』から読み解きましょう。
《 人間は欲望を有(も)つてゐるために生活ができる。…欲望は神仏の如き偉大な力のあるものが…本能として之を与えたのである。故に人が欲望のために勤労して獲(え)たものは総て私のものではなく天物である。それで人はその分限を越えて財産を浪費してはならぬ、生活に要する以外のものは之を公共の事に提供して報恩の実を挙げねばならぬ… (一部省略)》
この思想の集大成が、70歳を迎えての最大で最後の公益事業、齋藤報恩会の設立でした。

 

齋藤報恩会は三つの事業を目的とします。「学術研究助成」と「産業事業助成」、「社会事業助成」です。中でも力を入れたのが学術研究助成。世界でも稀な、時代を先取りする試みでした。
《 学問も己れ丈(だけ)ならせぬがよし、国の為にもなることをせよ 》。
国のためになる学問を、地元の東北帝国大学から、己の住む東北の地から生み出そう。そのための個人財産300万円の拠出であり、その資金の運用益によるおよそ年間20万円にも上る研究支援でした。それまでの大富豪の公益事業は、米国のロックフェラー財団をはじめ美術館や音楽ホールなどの建造と寄贈が知られています。
学術研究への助成を主な目的とし、大いなる成功を収めた…。この後の公益財団のあり方にも多大な影響を与えた齋藤報恩会の新機軸の公益事業でした。

 

1933年(昭和8)には、白亜の壮麗な建物「齋藤報恩会館」も建造されます。日本で二番目となる自然史系の「齋藤報恩会自然史博物館」も開設。子どもから大人までに愛され、仙台人の自慢の種となりました。産業事業では、「農芸林具館」を小牛田農林学校に隣接して建設、宮城県に寄付。社会事業では、日本赤十字社宮城支部に対する「診療所建設」への寄付なども行います。
ここまでに紹介した事例は、齋藤報恩会の実施した公益事業のほんの一部分にすぎません。

 

齋藤報恩会の成功例。「研究第一主義」こそ、東北大学の輝かしい伝統(ブランド力)と魅力。

齋藤報恩会の成功には、運営責任者に優れた偉才が存在したことも挙げなければなりません。
学術研究の助成の審査は、畑井新喜司(しんきし)東北帝国大学教授に任されていました。米国ペンシルバニア大学ウイスター研究所で優れた研究実績を挙げ、東北帝国大学の生物学教室に初代教授として招聘されたばかりでした。世界中で実験動物に「白ネズミ」が使われているのは、畑井の研究の成果です。
齋藤報恩会の「学術研究総務部長」を務めた畑井は、学術研究助成に二つの基準を設けています。一つは、「共同的大研究であること」。二つは、「継続研究の有望なものを完成させるもの」です。しかも、東京ではなく世界を常に研究の視野に入れていました。畑井の優れた先見力のもと、現代に通じる研究助成システムが当時にすでに実施されていたのです。

 

大学には、大きく分けて三つの役割があるといわれます。「研究」、「教育」、「社会貢献」です。東北大学に当てはめてみましょう。「社会貢献」では、イノベーションやベンチャー企業輩出が叫ばれている現在のはるか前の戦前と終戦後に、東北帝国大学の生み出した発明と指導のもと「東北金属工業(現・NECトーキン)」、「本山製作所」、「東洋刃物」、「東北特殊鋼」、「通研電気工業」などの製造業を仙台に誕生させました。世界に知られる企業「トヨタ」、「ソニー」も、その発展には東北大学の技術や人材が大きく貢献しています。
「教育」では、著名な大学ランキング書による「高校からの大学総合評価」で「第一位」を10年連続で独走中です。生徒が「進学して伸びた」でも、6年連続の「第一位」。進学高校の進路指導教諭から絶大な信頼を得ています。

 

となれば、いま東北大学が、世界規模でその実力を印象付けるもっとも効果的な施策とは、東北大学の伝統である「研究力」のますますの充実と発展ではないでしょうか。
東北大学の立地する仙台は107万人都市とはいえ、他の旧帝国大学の立地するすべての都市の「人口」や「経済力」と比較すると下回っています。東北帝国大学の時代には、仙台が札幌や福岡より人口が多かったことなど、今では誰が想像できるでしょうか。この状況で、東北大学が、東京や日本を飛び越え、世界にその存在感をアピールするにはどうしたらよいか…。それには、東北大学の伝統の「研究力」の、いっそうの飛躍がもっとも有効でしょう。

 

齋藤報恩会の見事な成功事例の中に、すでに東北大学の未来戦略へのヒントが示されているのではないでしょうか。筆者の私見ですが、「大震災復興貢献 東北大学研究支援・企業基金」というようなものを創り、広く世界に募ることも一案でしょう。「齋藤報恩会記念・東北大学学術支援章(メダル)」を創設し、研究支援への大口の寄付者に贈るアイデアも考えられます。まさに、齋藤報恩会の施策の現代版です。
とにかく、「研究の東北大学」の実力がさらに卓越すれば、おのずと「教育」や「社会貢献」も中身が充実、大きな果実をもたらしてくれます。
齋藤報恩会を深く考えること。それは、「研究第一の東北大学」の伝統(ブランド力)の重要性のさらなる再評価です。

●プロフィール
1854年(安政元年)宮城県前谷地(石巻市)生まれ。齋藤家の九代目、幼名は養之助。家は代々酒造業で家産を増やし、仙台藩への貢献により士族身分となる。有成は、1868年(慶應4)に、父有房の戊辰戦争での戦死により14歳で当主就任。明治維新後に帰農。若いときからひときわ理財の才に優れ、日本で第二位の巨大地主に成長。さらに、実業の各界で大きな成功を収めた。破産状態の大谷派本願寺の救済のため、財産整理と立て直しを依頼され見事に成功。一躍、名声を得る。「報恩主義」の精神から、1923年(大正12)、学術研究への資金助成が主な目的の財団法人齋藤報恩会を設立、300万円を拠出。毎年、当時の文部省の高等教育機関への科学研究費の全額に匹敵する金額を、東北帝国大学の研究者を中心に助成。「電子立国日本」の源流となる研究を生むなど、世界でも特筆される学術研究支援の成功例となった。「研究の東北大学」の伝統の発展に尽力。学術振興により社会への「報恩」を実現した。1925年(大正14)逝去、享年72歳。

主な参考資料
▽『齋藤善右衛門翁傳』著者兼発行者 財団法人齋藤報恩会 昭和三年 ▽『財団法人齋藤報恩会のあゆみ 財団85年・博物館75年』「財団法人齋藤報恩会のあゆみ」編集委員会編 財団法人齋藤報恩会刊 2009年 ▽『市史せんだい Vol1  斎藤報恩会の学術研究助成  -その一端の紹介、特に中井新三郎関係資料と狩野文庫について-  明石治郎』 編集発行 仙台市博物館 平成四年 ▽『石巻圏 20世紀の群像 (上巻)文化・学術編』 三陸河北新報社(石巻かほく)編 三陸河北新報社 2001年 ▽『河南町誌 下』 河南町誌編纂委員会編 河南町刊 昭和四十六年  ▽『東北大学五十年史 上』 東北大学 昭和35年 ▽『東北大学百年史一 通史一』 東北大学百年史編集委員会編 東北大学出版会 平成十九年 ▽『東北大学史料館紀要 第9号 財団法人斎藤報恩会の設立と研究者たちの関わりについての一考察 米澤晋彦 』 東北大学学術資源研究公開センター史料館編集・発行 平成26年 ▽『日本の企業家と社会文化事業 大正期のフィランソロピー』 川添 登・山岡義典編著  東洋経済新報社 昭和62年 ▽『言葉が独創を生む 東北大学 ひと語録』 阿見孝雄著 河北新報出版センター 2010年