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東北大学ひと語録

《人生の成功は、時を支配することだ。変化に挑む。人生は自分を変えてゆく歴史である。》

田辺 昇一(たなべ しょういち)

『神さま、仏さま、田辺さま』(週刊文春)と経営者が信頼。日本の経営コンサルタントの第一人者。

『神さま、仏さま、田辺さま』(週刊文春)と経営者が信頼。日本の経営コンサルタントの第一人者。

『若いうちに、田辺先生の教えを受けていたならば……』。

田辺昇一の生きかた知れば知るほど、こう感じる人が多いのではないでしょうか。

その田辺自身、実は世間的に見れば、大変な「挫折」と「転進」の悩みを経て、日本を代表する経営コンサルタントとして成長する人生を切り拓きました。標記の言葉のごとく「変化に挑み」続け、「わが道をゆく」人生を、自らの知恵と勇気で創りだし、獲得したのです。

田辺は、東北帝国大学工学部の航空学科に入学します。そこで、歯車理論の世界的な権威者である成瀬(なるせ)政男教授に出会いました。成瀬は、研究だけの学者ではありません。学生のための私塾「航空寮」を設け「昭和の松下村塾」を目指すような、若者の指導に情熱を抱く教育者でもありました。その十三名の塾員の一人が田辺です。

《諸君の中から世界的な人物が一人でも出てくれれば本望だ》とつねづね語る成瀬。精神の高揚と魂の鍛錬こそ人生の意味と、真冬の海で禊を行い、断食を実践するような教授でした。

田辺は、成瀬から「黎明の一刻の瞑想」を日課とすることを教えられます。田辺が、ゆとりを持った朝の活用と仕事や一日の段取りを考える瞑想の時間を持つことを訴えるのは、ここにその源があったのでした。

成瀬からは、「陰徳を積め」とも教えられました。このことも、田辺の《経営は自利より利他の精神であれ》、《社会のための企業であれ》との長年の主張に生かされています。

さて、田辺は、宮城県の片田舎の岩ヶ崎(いわがさき)で、海軍の秘密兵器であるロケットの噴射弁の研究を、棚沢泰(やすし)教授の指導のもと研究助手として取り組んでいました。日本の敗色の濃い戦局の起死回生を狙った極秘の研究です。

ところが敗戦となります。重要秘密兵器に関係したものは命が保証されないとの噂も流れました。敵の手にかかるよりはと、田辺は生死の決断に悩みます。ちょうどそのとき、田辺のもとに《くれ竹に つもりし雪を 拝しつつ しばし しのべよ はやる心を》との歌がある人から贈られます。田辺はこの歌で死への思いから立ち直りました。

しかし、進駐軍から航空産業が禁止された敗戦後の日本です。田辺の航空工学の研究を活かす就職口などありません。戦後の混乱期に、田辺は、帝大出でありながら、新聞の求人広告で見た「工員」募集の町工場に飛び込みで就職します。製造の現場を体験したいとの考えもありました。

田辺の活躍もあり、町工場は成長します。田辺は、幹部の地位に昇進しました。

ところが、田辺は突然に退社します。会社の業績も順調、田辺への待遇も手厚く、不思議に感じられる決断でした。しかし、経営者の行動を見るにつけ、この会社は潰れるとの思いが募ったのです。経営者の実際の行動と低い志に、田辺が強い疑問を抱いたからでもありました。

失業の身となった田辺は、半年もの間、職業安定所通いを経験します。そのとき田辺は、自分は何をすべきかを考え抜きました。やめた会社が倒産寸前となったことを元の同僚の話から知りもします。経営者に立派な人材がいない会社は、結局はおかしくなり、従業員やその家族を路頭に迷わすことになる。こう考えると、自分が経営の専門家になり、経営の“名医”になることは、何よりも大事なことではないか。そうだ、経営のコンサルタント業を始めよう。これなら事業の元手もいらない。頭は使えば使うほど知恵がたまる。泥棒に取られることもない。在庫のための倉庫もいらない。「これこそ私の生きる道だ」との決意が定まり、勇んである経営コンサルタントグループに参加します。しかし、それもわずか二年で解散の憂き目に遭います。

そこで、田辺は思い切ってたった一人での独立を果たしました。さらに所員一名を加え、『田辺経営相談室(当時)』を発足。35歳で創業、41歳で法人成、71歳で株式上場を果たしました。経営協力による、台湾、韓国企業経営30年。こうして順調に「株式会社タナベ経営」へと発展。いまでは中小中堅企業経営者に絶大な信頼を得る経営コンサルタント、日本の経営相談のパイオニア的な存在となりました。

『神さま、仏さま、田辺さま』とまで尊敬され、頼りにされています。

田辺のこれまでの生きかたは、多くの自著で語られています。

もし、若者、とくに田辺の後輩である東北大学の在学生にとっては、田辺の教えを詳しく学ぶ機会が大学の講義の一環としてあれば、どんなに幸せなことでしょう。

「経営の最高のコンサルタント」とは、「人生の最高のコンサルタント」にほかなりません。今後の東北大学、東北、日本の将来とは、どれほど多くの「未来の田辺昇一」、つまりは、「志ある創業オーナー経営者」を輩出できるかにかかっているのではないでしょうか。

●プロフィール
1922年(大正11)福井県生まれ。東北大学工学部航空学科卒。「歯車の成瀬」として世界的に知られた成瀬政男教授に師事。成瀬の個人塾の寮「航空寮」で暮らし、学問、精神、生活のすべてに成瀬の指導を受けた。大戦中は、海軍の秘密兵器ロケットの噴射弁研究に従事。敗戦で航空技術者の夢破れ、製造現場を知るためにも、と町工場の一工員から出発。二十八歳でコンサルタント業転進。1958年(昭和32)、『田辺経営相談所』創設。日本初の青年重役教室・社長教室を主宰。「現代の二宮尊徳」(週刊朝日)と評され、中小中堅企業経営者から絶大な信頼を得、マスコミ等で評判となる。株式会社タナベ経営(平成5年株式上場)・ファウンダー名誉会長。東北大学百周年記念事業では記念事業実行委員会の常任実行委員会委員長を務め母校との縁を深めた。

主な参考資料
▽『わが道をゆく――人間形成の知恵――』 田辺昇一著 ダイヤモンド社 1995年▽『社長のこころ 三十年間社員に贈りつづけたメッセージ』 田辺昇一著 ㈱タナベ経営 1985年▽『すべてを守ればすべてを失う 会社は不況では潰れない』 田辺昇一著 プレジデント社 2001年▽『企業の魅力 企業に未来はあるか』 田辺昇一著 ㈱タナベ経営 1992年