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インタビュー

電気通信の変革へ、勇気ある挑戦。

1980年代に入ると情報化社会が予測され、将来を見据えて通信網の拡充と通信料金の低下が希求された。それまで日本の通信事業は国有だったが、政府は市場競争によって活性化させようと「通信の自由化」を決め、電気通信事業法による通信事業への新規参入が可能となった。このとき稲盛和夫氏が創業したのが「第二電電(DDI)」である。小野寺正会長はその創業メンバーとして、難問とされる技術的課題などを次々とクリア。その緻密な思考力と勇気あるチャレンジ精神によって、社会を牽引するインフラ整備への企業力の蓄積を支えていった。DDIはその後、2000年に日本移動通信(IDO)と国際電信電話(KDD)との3社合併を行い、KDDIとなった。そのトップとして経営の采配をふるってきたのが、小野寺・現会長である。

小野寺 正(おのでら ただし)

KDDI株式会社 取締役会長 東北大学工学部電気工学科1970年卒業

先生の熱い研究意欲に刺激された、学生時代。

電気系に興味があったので工学部電気工学科を志望して、1966年に東北大学へ入学しました。
大学3年の時に、電気通信研究所の城戸健一教授の研究室に配属。電気理論講座を指導しておられた城戸先生は若くして教授に昇格されて、騒音・振動や音場の制御・計測から、さらに音声認識の研究に尽力されていました。
この城戸研究室で、私はスピーカーの研究に取り組みました。地味で目立たない学生でしたよ(笑)。
城戸先生は時々、学生をご自宅に招いてくださいました。いつも奥様がおいしい料理で歓待して下さったのです。下宿生活でもっぱら空腹だった友人は、「美味しいものが食べられる」と、先生の勉強になる話よりも喜んでましたね。
クラブ活動は、スピーカーや音響機器にふれたかったので、放送研究部に所属していました。部室は片平キャンパス内にあり、授業が終わるとよく行って、仲間と話し込んだりして時間を過ごしたものです。
チームを編成して、ラジオドラマやドキュメンタリーを制作。スクリプトや脚本を書いたり、デンスケと呼んでいた録音機を持って、街の人々をインタビューしたりしました。ラジオドラマは、脚本を創作して部員が声優になって収録したものです。ドラマ制作や研修をかねて、安い宿泊所を借りて、雑魚寝スタイルの合宿をしたのもいい思い出です。
仙台の他大学、東北学院大学や宮城学院大学などの放送部とネットワークを作り、交流も盛んでした。録音コンクールを開催したり、他大学の大学祭でラジオドラマの公開録画をしたり、いろいろやっていました。
この放送研究部でのつき合いは、OB会を含めて今も続いています。

 

大学サークル放送研究会OB会

チャレンジ意欲と使命感の先に仕事のやりがい

携帯電話ライブラリーの前で、手にしているのは世界初の本格的携帯電話マイクロタック(平成元年発売開始)

城戸先生の勧めもあり、日本電信電話公社(のちNTT)へ入社。本社採用の技術系社員は専門が決められますが、私は無線部門に配属となりました。現場実習で福岡勤務も経験しました。
本社に戻ってから、新しく出来た画像部門を希望し、テレビ電話の東京、名古屋、大阪を結んで行う大規模な試験を、企画の段階から現場での試験、結果報告書の作成まで3年半にわたって担当しました。東京で1週間、次の週は3日は大阪、残りは名古屋というように駆け回ってました。
それから、広島へ転勤となり中国地方5県の無線工事を担当しました。自分では気にしていなかったのですが、通常本社採用が行かないポストのため「終わったね」などと陰口をたたかれたこともあったようです(笑)。しかし仲間の予想を裏切り本社の無線部門の筆頭係長へ戻り、その後衛星担当調査員として通信衛星CS-2の設計、マイクロ無線部調査役として航空機電話を担当するなどいろいろ経験させてもらいました。

 

稲盛和夫さんとの出会いによる転機を迎えたのは、83年のことです。同じ公社の先輩から、「通信の自由化がされるので、新会社の立ち上げに取り組んでみないか」と言われました。稲盛さんが新会社の立ち上げに伴い、人材を集めているというのです。私は、稲盛さんも経営されている京セラのことも知りませんでした。この先輩社員は有線伝送を担当され、無線担当の私とはことごとく衝突するケンカ相手。意外なお声がけでした。
何も詳しくは聞かされないまま、京都で稲盛さんに初めてお目にかかり、随分とエネルギッシュな方だという印象を受けました。一社独占の構造を変えて電話料を下げる貢献をしたい、この稲盛さんの思いが強く伝わってきました。

 

時代は光通信がメインになりつつありました。光ケーブルを新たに敷設するにも限界があり、通信衛星もまだあてにならないことから、「新会社はマイクロウェーブ方式でやるほかない」と提案しました。この方式を担える無線技術者の数は限られていただけに、「まかせてもらえるのなら、私がやってみます」と、稲盛さんに申し上げました。
新会社は、まさにゼロからの出発。この先を考えると、電電公社である程度の出世はできても自分の仕事は決まったことしかできない。新会社は、自分のやりたいことをやれる土壌があり、ゼロから新たな青写真を描いていける。まして、自分の技術で「電話料を安くする」「社会を変えていける」という、社会貢献への使命感を果たしていける。心は決まりました。

 

「第二電電企画」(85年に第二電電へ改称)がスタートしたのは84年6月。メンバーは、電電公社出身、通産省出身、京セラ出身などでした。
通信は許認可事業ですから、国から免許を取得する必要があります。行政との折衝はそうたやすくはありません。また、トヨタ自動車が母体、国鉄が母体という新会社2社との競合関係も大きな壁でした。アンテナ建設用の土地の確保をはじめ、大企業を相手に闘うことは無謀と言われる程でした。

 

電話料金を安くする方針も、市内通話はNTT通信網の使用による付加料金、市外通話サービスは通話用のアクセスナンバー付加のためのアダプターが必要となり、無理難題が次々生じました。
それでも、市外通話サービスがスタートした87年に、当社の利用獲得申込み数は45万回線、他の2社はそれぞれ27万回線、15万回線と、第二電電がダントツのトップに躍り出たものです。

 

さらに移動体通信が注目され、自動車電話、携帯電話へとニーズが変化する中で、市場参入への課題は山積していきました。
例えば、自動車電話事業は、用意された電波を新会社2社で分け合うため、サービスエリアの分割が求められ、関東、中部を除いた西日本での参入となったのです。これを受け入れないと事業許可が下りないという、ギリギリの判断でした。

 

このように岐路や難関に遭遇すると、必ず新たな着想と具体案で乗り切ってきました。いわば寄せ集めメンバーの企業ながら、それぞれの胸にチャレンジ精神と使命感を持ち続けて、難問クリアへ粘り強く取り組んで行ったからです。
自分自身も入社後、夜遅くまで仕事にかじりついていましたが、他のメンバーも同様でものすごい仕事量をこなしても、疲れ知らずで頑張り抜いたものです。挑戦したことを達成していく充実感は、何ものにもかえがたいものでした。

 

現在、まさにグローバル時代。当社もミャンマーやモンゴルでの通信事業を加速させています。
このグローバル時代に大事なことは、グローバルスタンダードとともに、日本が培ってきたノウハウや、ひいては文化など日本独自の特徴も必要です。そうでなければ世界規模で戦い抜いてはいけません。当初は世界に合わせて戦っても、いつかそのやり方はコピーされます。いつまでも優位を誇っていけるのは、日本ならではの魅力を持ったものなのです。

幅広い勉強が必要。それができるのが東北大学。

平成27年東北大学入学式・オリエンテーションでの記念講

東北大学の長所は、文系、理工系の学部が揃っていることです。これからの時代は、例えば技術だけわかっていてもダメです。技術開発にも、ユーザーが受け入れてくれるマーケティングの考え方が必要です。理工系といえども、歴史や哲学など文系の考え方を知るべきですし、文系も理工系の考え方を理解することが大事です。東北大学は総合大学なので、いろいろな勉強が可能ですから、そういう意識で取り組んでほしいです。

 

日本全体に目を向けますと、高度成長期などを経て社会の状況はどんどん変わってきています。そうした動向に対して教育制度がついていっていないと危惧しています。
日本の教育は明治時代の制度をベースに引き継いできており、どちらかといえば企業などの中間層となる社員、技術者、技能者をたくさん育成してきました。高度成長期まではそれで良かったのです。しかし、高度成長期の成功体験を身につけた延長上だけでは、社会の変化に対応できなくなったことも事実です。低迷してきている企業力も、そこに起因している部分もあります。
時代にあった教育とはどうあるべきか、その回答を求めて実践することが求められます。教育制度の内容を変える時期に入っているのです。東北大学は既にいろいろな試みを行っていますが、その成果が出ることを期待しています。

 

高齢化社会となり、平均寿命が80~90年の時代になったことで、就職に関する考え方も変わらざるを得ないでしょう。
「第四次産業革命」と言われていますが、産業だけでなく社会制度も変えざるを得ない変革期を迎えています。明治維新を見ても、変革期は若い方々にとって大きなチャンスの時代です。皆さん方が新しい時代を切り開いていく気概を持てば、日本を、世界を変えていくことが出来ます。

 

高齢化社会においては、定年制も見直されて働く年齢も伸びて、働きたい人が働ける環境を整える必要があります。
学生の皆さんはもとより、若い人も、中高年の方々も、自己実現に向かってチャレンジしてほしいです。失敗を恐れることはありません。人生は長いのですからリカバリーはできます。

●プロフィール
1948年、宮城県生まれ。宮城県仙台第二高等学校を経て1970年、東北大学工学部電気工学科を卒業後、旧日本電信電話公社(現NTT)に入社。電電公社時代は、主に無線技術者として働く。1984年、第二電電企画(後の第二電電・DDI)に転じる。1989年、取締役。1997年、代表取締役副社長。2000年にDDI、KDD(国際電信電話)、IDO(日本移動通信)三社が合併し、現在のKDDIが発足、代表取締役副社長に就任。2001年6月に同社代表取締役社長に就任。2005年、代表取締役社長兼会長。2010年、代表取締役会長。2015年、取締役会長(現在に至る)。