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東北大学ひと語録

《東北大学へ行って、私はおよそ学問の研究の何たるかをしりえたのでした》

青木 生子(あおき たかこ)

古代の恋愛文芸研究の第一人者。日本の女子高等教育の発展と充実、生涯教育に貢献。女性憧れの東北大学を体現。

古代の恋愛文芸研究の第一人者。日本の女子高等教育の発展と充実、生涯教育に貢献。女性憧れの東北大学を体現。

1913年(大正2)に日本で初めて女性の入学を認めた大学、それが東北大学です。
このことがどれほど画期的であったことか。東京大学、京都大学が女性の入学を認めたのは時代が大きく転換した戦後です。この事実を指摘すれば、充分に理解いただけることでしょう。
東北大学は、向学心に燃えた、優秀な女性たちの希望の星、憧れの大学でした。この歴史と伝統を体現したような存在こそ、日本女子大学の学長・理事長を12年間務めた青木生子です。

 

青木は、日本の女子高等教育機関のさきがけであった日本女子大学校の国文科に学びます。
もともとは東京日本橋の問屋という恵まれた家庭に生まれました。三歳の時、父が関東大震災のため亡くなり、商売もたたみ湘南大磯で育ちます。平塚の県立高等女学校の恩師で国語教師の高瀬兼介などの薫陶を受け、国文学を学ぶため日本女子大学校への進学を希望。母の大反対にあいます。当時は、「女に学問はいらない」、女学校を卒業したら良家に嫁ぐ、が社会の常識。進学は婚期が遅れるとの理由でした。

 

岡崎義恵教授の名著『日本文芸学』を読み、東北帝国大学への進学を決意。
反対を押し切り日本女子大学校に進学できた青木ですが、学ぶうちに、さらなる悩みに直面します。文学とは、研究とはどういうことなのか。もっと本質的なものを探しあぐねていたのです。日本女子大学校の伝統である入学の際の己の決意表明の墨書に「誠実」と記した青木です。自分が生きることにも懸命で誠実でありたかったのでしょう。そんな折に出会った学術書が『日本文芸学』です。著者は東北帝国大学法文学部国文科教授の岡崎義恵。国文学研究の新風でした。日本文芸の特質を世界的な視野で体系化を試みる意欲あふれる研究の地平を拓くものです。
青木は、これこそが求めていた文学研究と魅了されます。なんとしても、岡崎義恵先生の元で学びたい。この一点で東北帝国大学の受験を決めたのでした。

 

当時の東北帝国大学の法文学部には、日本の知性を代表する名だたる研究者、学者が集まっていました。東北帝国大学に見事に合格した青木の学生時代に身近な存在であった教授陣の名を挙げてみましょう。岡崎はもちろん、美学の阿部次郎、国語学の山田孝雄(よしお)、中国文学の青木正児、中国哲学の武内義雄、哲学の高橋里美、日本思想史の村岡典嗣、英文学の土居光知、ドイツ文学の小宮豊隆などなど。ため息が出そうな見事な顔ぶれです。師を選ぶことも本人の大事な才能です。青木は若くして、己の道を自分の意志で切り拓いていったのでした。

 

青木の大学での勉学にはますます熱がこもります。夜の十二時、図書館から締め出されて帰る途中、ふと見上げると教授の研究室にはまだ灯火があかあかと灯っています。それを見て、さらなる無言の刺激を受ける青木でした。
青木の学問の関心は、古代の日本の「恋愛の文芸」に向かいます。当時の日本は戦時下にありました。学問の世界でも、戦争遂行の時流に流され、便乗する風潮が目立っていた時代です。
東北帝国大学では、そんな時流に無関心であるかのように、これまでの学問、研究を深め、高める、落ち着いた学問の府だったのです。こうした雰囲気にどっぷりつかりながら、しかも青木の学問の関心の方向は、あえて時流に抵抗するかのようなものです。青木自身、後年のエッセイにこう述懐しています。
≪戦争の対極にある平和の象徴が、愛と性であるとするなら、戦中における私の卒業論文は、反戦、平和主義の抵抗精神の標榜といえるかもしれない≫
1962年(昭和37)、当時としては異例の若さで論文「日本古代文芸における恋愛」で東北大学文学博士を授けられます。その後の「古代恋愛文芸の青木」の評価につながるのでした。
≪学問に恋うる心は私の片思いに終始することだろう。それはしかし私の青春の原点として仙台の地で根付けられたものとしかいいようのないものである≫
東北大学は、こうしてまた青木という素晴らしい女性研究者の種を播いたのでした。

 

12年間にわたり日本女子大学の名学長・理事長として手腕を発揮。通信教育にも情熱。
話を急ぎすぎました。青木は1944年(昭和19)に繰り上げ卒業。母校日本女子大学校に教師として迎え入れられ、その後、日本女子大学で活躍します。学問研究以外にも、女学校時代の恩師高瀬兼介の興した「大学講座」に献身的な協力をします。抑えがたい向学心を持ちながら、社会状況や家庭環境などで進学が適わぬ全国の女性に教育の機会を与えようとした試みです。これは日本女子大学の通信教育課程と同様、生涯教育のさきがけをなしたものです。
華やかなお嬢様大学と見られがちな日本女子大学ですが、ひたむきな向上心を持った女性のための、地味ではあるが、学びの原点の通信教育の推進の中心で青木は活躍していたのです。私立大学通信教育協会理事長・会長、日本教育会副会長の歴任は、その実績を誰もが瞠目していたからでした。放送大学教育振興会評議員、衛星通信教育振興協会理事も務めました。

 

青木は、1981年(昭和56)から12年間の長きにわたり、日本女子大学の学長・理事長として難しい時期の大学運営の舵を取り、名学長といわれました。日本の女子大学では初めての「理学部」を創設もしています。日本初の女性学士となった丹下ウメは、東北帝国大学の理学部卒の日本女子大学校の卒業生であり、教授です。丹下は、しかも日本女性初の農学博士。青木は女子大学校の学生時代に、憧れの大先輩として丹下の姿をキャンパスでよく見かけていました。理系女子から日本の女性大学生が誕生したことを、私たちは記憶に留めておくべきでしょう。
青木をはじめ女子大学の学長には、東北大学出身者が際立って多く活躍していました。一時期の女子大学の女性教授は、留学帰りか東北大学出身者でしたから当然の結果でしょう。

 

青木の人となりが分かるのが、著書『近代史を拓いた女性たち 日本女子大学に学んだ人たち』(講談社)の人選です。十一名の中に、高村智恵子、宮沢トシの二人のみちのく女性が紹介されています。それぞれが、高村光太郎の妻、宮沢賢治の妹という、まさに日本を代表する詩人、芸術家に大きな影響を与えた女性ではありますが、本人が活躍したとまではいえません。宮沢トシは二十五歳の若さで亡くなります。日本女子大学の卒業生には、著名人や名流夫人をたくさん輩出しています。その中で、なぜ、この二人を選んだのか。二人の、己の向上を目指し、志高くありたいと懸命に健気にもがき、努力する姿、人間性に深く共感したからではないでしょうか。まさに青木は、天性の教育者であったのです。
東北大学の「100周年記念文化貢献賞(教育部門)」の青木への授与は、適任でした。

 

最後に、筆者が青木から受けた第一印象を紹介しましょう。大先輩、大学者に対して失礼かもしれませんが、「なんと、チャーミングなお方だろう」でした。女子大時代の青木は、ベレー帽をかぶり、バイオリンのケースを小脇に抱え、とにかく目立つ美しい人であったとのこと。
その生まれながらの魅力に、学問研究の知性と教育者としての長年の使命が創りあげた人間性が加わり、その姿や仕草には、素敵に人生を重ねてきた美しさと品格があふれています。
初めて女性の入学を認めた東北大学、その期待に応えた青木生子。私たちの誇りです。

●プロフィール
1920年(大正9)、東京生まれ。日本の女子高等教育機関のさきがけとして創立された日本女子大学校を卒業の後、東北帝国大学法文学部国文学科に入学。「日本文芸学」を打ち立てた岡崎義恵(よしえ)教授に師事。1944年(昭和19)卒。その後、母校の日本女子大学の国文学の研究者、教育者として後進の指導に当たる。後に学長や理事長を長年務め、日本女子大学の発展、充実に大きく寄与。私立大学通信教育協会理事長・会長、日本教育会副会長などを歴任。2007年(平成19)の東北大学100百周年記念式典では「東北大学100周年記念文化貢献賞(教育部門)」を受賞。『日本古代文芸における恋愛』により東北大学文学博士。古代の恋愛文芸の研究で著名。日本の女子教育に関する著書も多数。東北大学萩友会顧問。

主な参考資料
▽『青木生子著作集 補巻 萬葉余滴』 青木生子著 おうふう 2010年 ▽『青木生子著作集 第十二巻 随筆・索引ほか』 青木生子著 おうふう 1998年 ▽『古代文芸における愛 ―その本質と展開―』 青木生子著 弘文堂 1954年 ▽『日本古代文芸における恋愛』 青木生子著 弘文堂 1961年 ▽『近代史を拓いた女性たち 日本女子大学に学んだ人たち』 青木生子著 講談社 1990年 ▽『日本女子大学叢書5 阿部次郎をめぐる手紙』 青木生子・原田夏子・岩淵宏子編 翰林書房 2010年 ▽『女性百年 ――教育・結婚・職業≪いかに生きたか、いかに生きるか≫』 編者「女性百年」刊行委員会 東北大学出版会 2009年 ▽『回想東北帝国大学 ――戦中戦後の文科の学生の記』 原田夏子・原田隆吉著 東北大学出版会 2007年▽『言葉が独創を生む 東北大学ひと語録』 阿見孝雄著 河北新報出版センター 2010年