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東北大学ひと語録

《人間環境の保全を人類至上の目標であると認識したことに賛同し、われわれとわれわれの子孫のためにこれを強く支持します。》

大石 武一(おおいし ぶいち)

医師から政治家に転進。環境庁長官として日本の針路を「環境対策先進国」へ舵取り。

医師から政治家に転進。環境庁長官として日本の針路を「環境対策先進国」へ舵取り。

日本や地球の環境破壊への対策と保全に、大きな役割を果たした政治家がいました。

大石武一環境庁長官の、1972年(昭和47)ストックホルムで開催された「国連人間環境会議」での代表演説は、いまでも語り草の名演説です。

標記の言葉は、その真摯な演説のほんの一部の紹介に過ぎません。

演説で大石は、経済優先、公害多発の国と外国から呼ばれ、責められていた日本のこれまでの実態を率直に認め、反省しました。今後の日本の国家方針として、人間尊重、環境重視を世界に宣言するという、これまでにない意欲的な演説内容と評判にもなります。演説のさいには、日本の「国連環境基金」の10パーセント拠出を、大石は、いわば個人の決断でいち早く約束しました。この先駆けとなる発言が、国連による環境対策を現実のものとする大きな後押しとなります。

一連の大石の言動が、日本に国際的な環境政策実現のリーダーシップを発揮させ、環境対策先進国へと舵を切らせることとなりました。その中心にいて活躍したのが、大石だったのです。

大石の一歩先を行く言動が、問題もなく日本で認められたわけではありません。敗戦で日本の国土は荒れ果て、国民は日々の食事にも事欠くありさまです。日本の復興、経済復興のためには産業の発展こそ、日本人のだれもが疑わない国の方針でした。とにかく産業振興ありきで、がむしゃらな経済優先、建設まい進でやってきた結果の日本の「公害」であり、「自然破壊」です。

この日本の方針に、敢然と異議を唱え、あえて立ち向かった、先見と信念の人物が大石でした。

正しいと思えば、孤立をしようが、損得を考えない大石の生きかたは、親譲りのものです。

『この親ありて、大石武一あり』。調べれば調べるほど、このような印象を強く持ちました。

父倫治は、長年にわたり国政に貢献した政治家です。ところが戦前のいわゆる軍国化のために政党政治が否定され、「大政翼賛会」が国会議員の選挙にあからさまな圧力をかけます。ところが断固としてその動きに抵抗したのは、全国会議員435名の中でわずか2名。一人が父倫治であり、他の一人が「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄(ゆきお)だったのです。

そのときのいきさつが、父から大石への手紙に記されていました。大石が家宝としたその手紙で倫治は、軍の圧力で政党が解散されたことを《政党政治が死滅した》と断じます。そして、この国情で、大勢に従わず孤立を守ることは、国会議員としての活躍を断たれたのと同じと現状を説明します。そして、現在の自分の決意を、倫治は長男武一にこう書き送りました。

《……全く生きた屍を議会の一隅に運び後生に斯云(かくい)ふ議員のあった事を示すより外はない。お前に丈心境の一端を書き送る 能く玩味して呉れ……》。

父の手紙に、大石は《…何時如何なる場合にても私は父と云うものを誇ることが出来ます。誠に有難うございます…》との返事を送っています。

倫治の、死を前にした遺言《武一、お前は立派な政治家になって、私のやり残した仕上げをしてくれ》に従い、大石は考えてもいなかった政治家へと転身します。大石は、少年時代は植物が大好きで、花を育て、植物採集に夢中になるような少年でした。東北帝国大学受験にあたり植物学に進もうとしたほどです。しかし、父倫治の、自分が亡くなった後は長男である大石が経済的にも家を背負わなければならない、それなら医者になることがいいのではとの言葉ですぐに医学部受験に変えた大石です。医師として、東北大学附属病院第二内科の助教授から国立仙台病院の内科部長になったばかりでしたが、大石は、父の遺言に従い国会議員の道へと転進します。

その後、いよいよ初入閣の機会が巡ってきました。1971年(昭和46)のことです。大石は、総理大臣の佐藤栄作に、発足したばかりの環境庁長官への就任を直訴します。ずっと格上の厚生大臣の椅子をも射止めることができたにもかかわらず、自分から利権とはほど遠い環境庁の長官を目指す……。ここに、政治家としての大石の、本領、本来の姿がうかがえるでしょう。

大石はハト派の政治家としても知られていました。戦争こそ人類最大の環境破壊であり、人間の一番の不幸のもと、との信念からでした。標記の宣言においても、核兵器の禁止を求めて強く世界に訴え、それが、「国連人間環境会議」での演説に大きな共感を生んだのです。

国会議員として、自然保護議員連盟会長のほか、国際軍縮促進議員連盟会長として、軍縮、平和運動を、議員外交の指導者として熱心に取り組みます。孤立を恐れず軍部と闘った父倫治の信念を引き継いだのです。

まさに、「親子鷹」にして、「親子鳩」であった大石の人生でした。

●プロフィール
1909年(明治42)仙台市生まれ。東北帝国大学医学部卒。医学博士。軍事国家への翼賛政治に抵抗した反骨の代議士父倫治(りんじ)の遺言により国会議員に転進。環境庁の実質的な初代長官。1972年(昭和47)のストックホルムでの「国連人間環境会議」にて、日本のそれまでの経済優先、公害多発を率直に認め反省、これからは人間優先、環境重視への転換を積極的に宣言。環境対策先進国へ日本の舵を切る戦後日本の一大エポックを生む。時の通産大臣田中角栄や福島、新潟、群馬の三県知事の反対を押し切り、原野を工事中の道路の尾瀬乗り入れをやめさせ国立公園を守る。水俣病の患者認定では「疑わしきは認定」と救済幅を広くした。2003年(平成15)没。

主な参考資料
▽『尾瀬までの道 緑と軍縮を求めて』 大石武一著 サンケイ出版 1982年▽『ドキュメント 日本の公害 第2巻 環境庁』 川名英之著 緑風出版 1998年▽『百年の逸材(全十二編)花とヒューマニズム 大石武一』 中島信吾著 青山史郎編 東京アドコンサルタント 2000年