×

home校友アーカイブ > 東北大学ひと語録

東北大学ひと語録

大学とは、どの組織にもまして「人」こそがすべてです。
東北大学とは、なぜ、日本人には苦手と思われてきた「独創」を生み、「創造性」を発揮した人材を、各分野に輩出しつづけているのでしょうか。
この理由を探るには、人物そのものから探ることがいちばんの近道でしょう。
そこから見えてきた「東北大学精神」とは、その独創者たちの発した「名言」とは、、、。
東北大学には、まさに、独創を生む「理由」があったのでした。

東北大学萩友会 広報委員会委員
阿見孝雄(1969年 法学部卒)

2019.08 掲載

《工学というものは人生の役に立つところまでいかなくてはいけない》

プロフィール:1901(明治34)年、宮城県生まれ。旧制第二高等学校から東北帝国大学理学部入学も退学、翌1922(大正11)年同大学工学部電気工学科に再入学。1925(大正14)年の卒業後直ちに工学部の講師に就任。1935(昭和10)年には電気通信研究所を兼務。電気工学関連の幅広い優れた研究で知られる。録音技術では、「交流バイアス方式」を発明し特許登録。後にソニーとなる創業間もない東京通信工業が特許を取得、「世界のソニー」として飛躍のきっかけとなり、「弱電の東北大学」、「電子立国日本」へ貢献。永井が常に口にした『工学とはマネーメーキングの学問でもある』の実践例ともなった。日本学士院会員。日本学術会議会員。紫綬褒章受章。 NHK放送文化賞・河北文化賞などを受賞。1989(平成1)年逝去。享年88歳。

永井 健三(ながい けんぞう)

2018.04 掲載

《いまに輸出を花型部門に育ててみせるよ。》

プロフィール:1912年(明治45)、東京生まれ。旧制浦和高校から東北帝国大学法文学部法科へ。1937年(昭和12)、鮎川義介が創設した日産コンッエルンの日産自動車に入社、経理部に配属。早くから「日産のプリンス」と将来を嘱望された。1977年(昭和52)に社長就任。日本自動車工業会会長として対米輸出摩擦の解消にも取り組む。経済界の政策集団「経済同友会」の代表幹事。2002年(平成14)のサッカーワールドカップ招致委員会会長として招致に尽力。勲一等旭日大綬章を綬章。2003(平成15)年逝去。享年91歳。

石原 俊(いしはら たかし)

2016.07 掲載

《技術なき工学は空虚である。工学なき技術は盲目である。》

プロフィール:1903年(明治36)、愛知県内海町(現・南知多市)生まれ。生家は兄が町長を務める有力家系。旧制の愛知一中、八高を経て、東北帝国大学工学部機械工学科に入学。優秀な成績であった。下宿先の娘で才媛の石川千代と恋愛。生家から結婚への大反対を受け、心労からか千代ともども結核を発病。千代は子息猛を生んだ一年半後に病没。梅原半二も結核療養で休学。大学に戻り講師となったが結核を再発。大学を去り、再婚した妻トモの経営するバーやキャバレーのマスターをしていた。その時、大学の恩師抜山四郎から豊田喜一郎を紹介され、国産自動車の生産を目指していたトヨタ自動車(以下、原則として現社名で表記)に入社。ラジエーターを研究設計、その後は製造機械すべてを設計。量産モデル工場建設の基礎を築く。その後、日本初の本格的な小型乗用車の技術開発の陣頭指揮をとり、初代クラウンやコロナが誕生。1960年(昭和40)、品質管理への卓越した実績をたたえるデミング賞を受賞。世界に冠たる「品質管理のトヨタ」の先鞭をつける。常務取締役や豊田中央研究所代表取締役所長を歴任。自動車技術会を長年育成し日本の自動車工業に寄与、交通文化賞を受賞。紫綬褒章受章。哲学者の長男猛は文化勲章を受章。1989年(平成元年)逝去。享年87歳。

梅原 半二(うめはら はんじ)

2016.02 掲載

《広瀬川のほとりをめぐり、青葉山に登れば、一生かかっても研究つくせないほどの資料が山積している。》

プロフィール:Hans・Molisch 1856年(明治29)、オーストリア生まれ。生家は地元で著名な園芸農家。 近くの修道院の院長が、植物の遺伝の研究のメンデル。モーリッシュ家とは親しく、メンデルの影響もあり植物学の道に進む。ウイーン大学で植物生理学を学び博士号取得。助手時代の業績が、糖の過敏反応の発見、いわゆる「モーリッシュ反応」。後にウイーン大学の教授、理学部長を歴任。しかし、第一次大戦の敗戦でオーストリアは混乱と窮乏を極め、天文学的なインフレに悩まされる。そのとき、東北帝国大学が生物学教室発足に伴う植物学の主任教授として招聘。ただちに受託、65歳ながら単身で1922年(大正11)に来仙。新築された家に住まず、研究室に起居。研究と実験、講義の準備に没頭。東北帝国大学時代に、「光合成」の明反応(光で酸素発生)を発見。数々の業績を挙げ、2年半後の1925年(大正14)に帰国。仙台での研究を 『Pflanzenphysiologie in Japan(日本の植物生理学)』にまとめ、日本植物生理学の研究に貢献。一方、サハリン・北海道から九州佐多岬までの精力的な旅の見聞が好著『Im Landeder aufgehende Sonne(「日出づる国にて」、邦訳題「植物学者モーリッシュの大正ニッポン観察記」)』に結実、日本を科学者の視点で紹介。帰国後にウイーン大学総長に就任。総長を 退いた後もインドで研究。死の直前まで精力的に研究を続け、1937年(昭和12)没。享年81歳。

ハンス・モーリッシュ

2016.01 掲載

《普通の人間は、ちゃんと考えて書かれたテキストを一行一行読みながら、著者の思考を追思考することによってしか、思考力の養成はできそうにありません。》

プロフィール:1928年(昭和3)生まれの山形県出身。3歳で、満州国の官吏となった父と満州国(現中国東北部)長春市(のち満州国の首都新京特別区)に移住。1945年(昭和20)、広島県江田島の海軍兵学校入学。広島の原爆投下を目撃。8月の敗戦後、17歳で佐賀、東京を転々、上野の地下道にも野宿。テキ屋の親分に見込まれ、その手伝いで糊口をしのぐ。その後に山形県新庄市の遠縁の家へ。満州から引き揚げてきた家族と母方の郷里の鶴岡市に移る。代用教員、鶴岡市の臨時職員、闇屋と綱渡りの人生で家族を養う。闇屋で手にした大金を頼りに、山形県立農林専門学校に入学。父のシベリア抑留からの帰国後、読書に耽溺。ハイデカーの主著『存在と時間』と邂逅。青年木田の抱える“絶望”を読み解き、解放してくれる運命の書と直観。深く学ぶには専門的な学問が必要と旧制最後の東北大学文学部哲学科を受験し合格。特別研究生に選ばれ奨学金で博士課程まで修了。2年間の助手、講師を経て中央大学の専任講師に転出。テキストの一語一語をゆるがせにしない東北大学で身に着けた真摯な研究でハイデガーやその周囲の哲学者の思想に肉薄。メルロ=ポンティの翻訳書で一躍注目。分かりやすい日本語で書かれ、日本の哲学書の翻訳を一変させた。哲学の著書も、本質をずばりと俯瞰、わかりやすい文章と評判。日本人の哲学を考え求めつづけた、反哲学、反アカデミズムの旗手。中央大学名誉教授。2014年(平成26)没。享年85歳。

木田 元(きだ げん)

2015.06 掲載

《ではもう一遍やってみますか》

プロフィール:村上武次郎(むらかみ・たけじろう) 1882年(明治15)、京都府生まれ。高等小学校を卒業して小学校の代用教員を務め、その後に京都師範学校へ。小学校の教諭からさらに東京高等師範学校へ進学し卒業。京都府立第一高等女学校に赴任。なお学業の思い断ちがたく二十九歳で京都帝国大学理科大学純正化学科入学。学究への転身を図る。京都帝国大学講師になるも本多光太郎の懇請で、後の金属材料研究所の前身東北帝国大学臨時理化学研究所の「補助嘱託」になる。降格人事だが新生の意気に燃え、みちのく仙台へ。この決断が、村上を世界の金属学の権威者とする端緒となる。本多のいわば右腕。日本初の大学附属研究所「鉄鋼研究所」さらには「金属材料研究所」への発展と充実を、優れた才能と努力、誰からも信頼される控え目で温厚な人格で終生支え続けた。物理的な探求の本多に対し、金属を化学的な側面から研究。「村上試薬」を発見、金属性質の安定した状態の組織を顕微鏡で精査する手法を世界の研究者に提供、金属学が飛躍的に進展。特殊鋼の研究でも顕著な実績を挙げ、その製造と実用化までの産業界のよき相談役であり、日本の金属産業発展の功労者。四十代で工学部長、停年の1944年(昭和19)までの8年間を金属材料研究所の所長歴任。退官後も、金属関連の各工場に出かけては長年指導。帝国学士院賞、日本金属学会賞、本多記念賞受賞など受賞多数。1956年(昭和31)に文化勲章授章。仙台市名誉市民。1969年(昭和44)逝去。享年87歳。

村上 武次郎(むらかみ たけじろう)

2015.03 掲載

《…先生の名は決して多くの人に知られている訳ではないが、先生は、私の眼のなかで、私の心の中で偉大である。…》

プロフィール:魯迅(本名:周樹人(チョウ・シューレン))。1881年(明治14・光緒7)、中国浙江省紹興生まれ。家は官吏登用試験「科挙」の試験の合格者を出す地元の名望家。祖父は「進士(科挙試験最高レベル)」合格、中央官庁の要職を務めたが、退職後に魯迅の父の科挙の試験官への贈賄事件で下獄。さらに父の病死で一家は零落。魯迅は少年の身で家長の責任を担う。「科挙」の準備もしながら、清末に誕生した学費無料の陸軍の洋式学校、鉱務鉄路学堂に入学し卒業。清政府の官費留学生として1902年(明治35)来日。日本語学校を卒業し、1904年(明治37)、仙台医学専門学校(現・東北大学医学部の前身)に進学。まじないに近い医療に頼る中国の人々を近代医学で救いたいとの思いがあった。解剖学教授の藤野厳九郎との心の交流は自伝的作品『藤野先生』で著名。しかし、半植民地化された中国を救うためには「身体」の前に人々の「精神」を治すことが先決と決意。仙台を離れ「文学」の道に進む。後に、中国の近代文学を開拓。「文学革命」の指導者、新中国を生む思想家として活躍。中国を代表する文豪。代表作に『阿Q正伝』、『狂人日記』など。東北大学には、魯迅が学んだ階段教室が残り、中国の江沢民国家出席も来訪。『藤野先生』は中国の国語の教科書に採録。いま東北大学では多数の中国人留学生が学ぶ。1936年(昭和11)、結核で逝去。享年56歳。

魯迅(ルー・シュン)

2014.12 掲載

《 …人間ガ其勤務ノ結果ニ依リ得タルモノハ即チ天物ニシテ、コレヲ人類ノ幸福ニ提供スベキモノニテ、決シテ自己ニ私スベキモノデナイ… 》

プロフィール:1854年(安政元年)宮城県前谷地(石巻市)生まれ。齋藤家の九代目、幼名は養之助。家は代々酒造業で家産を増やし、仙台藩への貢献により士族身分となる。有成は、1868年(慶應4)に、父有房の戊辰戦争での戦死により14歳で当主就任。明治維新後に帰農。若いときからひときわ理財の才に優れ、日本で第二位の巨大地主に成長。さらに、実業の各界で大きな成功を収めた。破産状態の大谷派本願寺の救済のため、財産整理と立て直しを依頼され見事に成功。一躍、名声を得る。「報恩主義」の精神から、1923年(大正12)、学術研究への資金助成が主な目的の財団法人齋藤報恩会を設立、300万円を拠出。毎年、当時の文部省の高等教育機関への科学研究費の全額に匹敵する金額を、東北帝国大学の研究者を中心に助成。「電子立国日本」の源流となる研究を生むなど、世界でも特筆される学術研究支援の成功例となった。「研究の東北大学」の伝統の発展に尽力。学術振興により社会への「報恩」を実現した。1925年(大正14)逝去、享年72歳。

齋藤 善右衛門有成(さいとう ぜんうえもんとしなり)

2014.06 掲載

《 諸氏将来ノ大ヲ期スルコトハ今日学生トシテ研鑽中ニ胎胚スルコトヲ考ヘ之ヲ忽(ユルガセ)ニスルコト勿(ナカ)レ。 》

プロフィール:1858年(安政5)金沢生まれ。東京帝国大学理学部数学科大学院卒。初代総長澤柳政太郎の京都帝国大学総長転出を受け広島高等師範学校校長より抜擢、1913年(大正2)第二代総長に就任。理科大学に三名の女性の入学を文部省の反対を押し切り実現。高等学校(旧制)卒業者だけでなく専門学校卒業者等への帝国大学への門戸を開く「傍系入学」のまさに象徴的な出来事。社会から大いに注目を集めた。学術的な向学心に燃える全国の俊英の希望の星の帝大、実力主義の東北帝国大学となる実績を創る。大学昇格を前提に医学部専門部、工学部専門部が発足。後の法文学部とあわせ、総合大学への道を拓いた。総長として開学式を挙行、実務的な大学創建者ともいえる。1917年(大正6)に学習院院長に転出。後に宮中顧問官や貴族院議員を歴任。享年71歳で1929年(昭和4)没。

北條 時敬(ほうじょう ときゆき)

2014.01 掲載

《My life is only one.》

プロフィール:1909年(明治42)、金沢市生まれ。東北帝国大学理学部物理学科卒。その後、中央気象台、中央航空研究所を経て、1945年(昭和20)に東北帝国大学理学部に地球物理学科が開設され教授就任。気象学講座の発足からその発展と充実に貢献。気象学、特に大気放射学の近代化の先駆者として活躍した世界的な権威者。大気中の赤外放射伝達の図式解法は「山本の放射図」として広く活用された。また、人工衛星による赤外放射の観測から気温の「鉛直(重力の方向)分布」を求める解析法を提案、「米国気象庁賞」を受賞。さらに、時代に先駆け、人間活動に起因する大気中の二酸化炭素(CO2)やエアロゾル(大気浮遊微粒子)の増加が及ぼす気候変化の懸念を指摘、科学的な観測にいち早く取り組んだ。その結果から地球環境への重大な危機的未来を予測。世界に警鐘を鳴らし、その後の「CO2増加への地球規模の政策課題」を各国が議論する端緒を創る。日本学士院賞など受賞多数。退官後に宮城教育大学の学長歴任。1980年(昭和55)没。

山本 義一(やまもと ぎいち)